実は私、マルクスの資本論ってちゃんと読んだことがないのです。
それがいいことか悪い事かはわかりませんが。
だが、卑近な事例、身近な事例で、このことをよく考える機会がある。
それは 「資本家と労働者の根本的な違い」
形式論で行けば資本家は株主であり、労働者は給与所得者である。
だが、日本は欧米と異なり、この両方の特徴を持っていたり、または経営者の立場で有りながら、
実は単なる給与所得者であったりする人もいる。
最近の例では IYの伊藤名誉会長とセブンの鈴木氏である。
資本家と、サラリーマン経営者の組み合わせ。結果は資本主義そのものであった。
鈴木さんは 実は労働者であったわけだ。 理論上も現実的にも。
そごうの水島会長やダイエーの中内会長などとの決定的な違いであった。 この人々は、最後は会社と一緒に沈没したのだ。そして亡くなった。
時々だが銀行にかつていた人たちと、会う機会があるが 決定的にこの意識が違うということを痛感する、
いや、もとは同じ意識だったのが、別々な思考回路になっていくということ。
それは 資本家になってしまった人 と労働者のままの人の違い。
銀行辞めてこの2種類が存在するということ。ただ、転退職を繰り返しているだけの人と、事業基盤を作る人との2種類。(家を継いだのは除く)
銀行に居る人はもちろん、労働者。だが守備範囲は極めて狭い。連動してその責任も軽量である。
その「体力と時間と生命」をもって 対価を得ており、その範囲内でしか実は対価を得ることができない。
労働者は行動が資本家によって制約されている社会なのである。
資本家は「お金で工夫して対価を無限に生みだす」というのが正しい位置づけではないか。
制約はなく、あるとすればその資本の額による制約。
しかし、勘違いして、その体力と時間と生命で対価を得ようとしているのは、個人事業主か、やはり雇われ経営者なのである。
この典型事例が「コンサルティング会社」「デザイン・建築事務所」。その経営者が死ねば終わり。
とりあえず形式上 法人であるだけ。
ぼんやりしていると、こういう傾向にはまってしまう。
こうなる企業は非常に多いのだ。 それに気がつかないから。見てる先が誤っているから。
事業承継というビジネスが成立するのは日本だけである。